インドで見つけた僕の使命~10日間の瞑想コースで学んだこと~

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いやーもう、こんなに心から喜びを感じたのはいつぶりだろう。笑
体中で喜びを感じるってこういうことなんですね。今もニヤニヤしながら書いてます。笑
 
だって、10日間、合計約100時間瞑想し続けて、やっと解放されたんですから。もう感無量ですよ。
コースの最後、空に向かって両手広げて、「自由だー!!」とか叫んじゃいましたもん。笑
まあ自ら参加して、勝手に拘束されてるんですけど。笑
 

 

とにかく、壮絶な10日間だったんです。毎朝4時に起きて夜の9時までひたすら瞑想。9日間は一言も会話できず、何かを読んだり書いたりすることもできない。
瞑想はもちろん良かったけれど、外の世界の刺激が一切ない環境に身を置いてひたすら自分と向き合えたことで、多くの学びを得ることができました。
 
いったい何をしていたのか。
まずは、この瞑想コースについて簡単にまとめます。
これはヴィパッサナーという、いわゆるブッダ、ゴータマ・シッダールタさんが説いた瞑想法を修行するコースで、今では世界中にセンターが設けられています。25世紀以上もの間、数えきれないほどの人々がこの瞑想法を修行してきました。
 
まず瞑想って何なのという話ですが、世界にはいろんなタイプの瞑想法があって、最近だとグーグル社が導入したマインドフルネスなどが注目を集めています。
そのマインドフルネスの原型が、ヴィパッサナーです。
瞑想って聞くと宗教的なものを連想する人もいるかもしれませんが、これはそういうタイプのものではなくて、むしろこの世に神も仏もないんだから、そんなものにすがらずにひたすら自分を鍛えて生きろっていう超現実的かつストイックな教えです。笑
ブッダは神でも仏でもなくれっきとした人間なので、彼の言っていることはすべて論理的、科学的、かつ実践的です。
 
だから彼の説いた瞑想法は儀式やお祈りなどの一切ない、たとえば柔道とか書道みたいに、段階に分けて知識とスキルを身につけていくもので、ヴィパッサナー検定とか作れそうなくらい体系的なプログラムになってます。笑
だからこそ安心して参加できるし、瞑想は心と脳を鍛えるエクササイズなので、おすすめです!
瞑想の効果については科学的にも実証されています。
 
 
マインドフルネスは世界中で流行していてアプリもあるし、この機会に皆さんもぜひ瞑想はじめてみてください!
ヴィパッサナー瞑想はなかなかハードなので誰にでもおすすめするわけではありませんが、興味のある方は僕でよければ何でも聞いてください!ちなみに日本でも、千葉と京都でコースが受けられます!
 
 
さて、では実際に瞑想では何をするのか。
一言でいうと、ひたすら自分の呼吸と感覚を観察します。
そうして、自分の体や心に起きている変化に気づく力、それに気づいても動じない心の平静さを養います。
またそれを通じて、自分を縛っている様々な執着を手放し、より自由に生きられるようになっていきます。
そして、自分とは本当は何なのかという真実を、体験を通して知ります。
 
なんだかよくわかりませんね。笑 
そのために、この背景にある僕たちの性格についてお話します。
(これはあくまで一般的な傾向であって当てはまらない人もいるし、誰かを批判するつもりは一切ありません。)
 
僕たちは成長するにつれて、自分のアイデンティティ、イメージを確立していきます。
僕だったら、アメリカ生まれの日本人で、帰国子女で、名古屋大学という世間的にはそこそこ良い大学に通っていて、家族や友達に愛されていて、他者や社会のために活動していて、充実した人生を送ってる幸せな自分。みたいな感じですね。笑
(真実ではなくあくまでイメージです。笑)
もっと細かくすると、これができてあれができなくて、とか、これを持っててあれは持ってなくて、みたいに自分の能力やアイデア、所有物にまで及んでいきます。
僕たちは一人ひとりがこういう自分のイメージを持っていて、無意識のうちにそれを中心に世界を見て、物事を選択して、人生を生きています。
自分のイメージにとってこれは良い、悪いと決めて、良いものを求め、悪いものは避ける。一緒にいて何か良いことがあるから、その人と関わる。自分の好きなものはほしいけど、嫌いなものはいらない。良いことは起こってほしいけど、悪いことは起こってほしくない。自分のイメージという基準に合わせて、無意識のうちに好き嫌い、良い悪いを決めて行動しています。
要するに、僕たちは基本的に自己中心的で、自分のイメージに執着しています。
でも、そりゃそうですよね。誰も自分にとって嫌いなものがほしい、悪いことばかり起こってほしい、不幸になりたいなんて思いませんから。笑
僕たちは幸せになりたいからこそ、好きなものがほしいし、嫌いなものはほしくない。
そうやって自分のイメージをより良いものにしていけば、幸せになれると信じています。
 
でも、これに執着しすぎると、不幸になってしまいます。
エゴが強くなってしまうんですね。
自分の思い通りにいけば喜び、愛するけれど、思い通りにならなければ怒り、落胆し、嫌ったり憎んだりする。
これは留まるところを知らなくて、良いことはもっともっとほしくなります。
何か手に入れたらもっと良いものを渇望して、一生満足することはない。
そして、悪いことはもっともっと避けるようになります。
手に入れたものを失いたくない、自分のイメージを崩したくない。
そんな恐れがどんどん大きくなっていきます。
いつまでも満足できず、さらに自分の持っているものを失う恐れに駆り立てられていく。
きりがありません。
これはすべて、自分のイメージに対する執着によって生まれます。
 
しかも厄介なことに僕たちは、このイメージに対する他人の評価にも執着するんですね。笑
僕もそうでした。それについては過去の記事でもお話しています。
自分のイメージがどう思われているか、他人と比べて優れているか、社会的にはどうか、平均より良いか悪いか...。
もう必死でこのイメージを守ろうとします。
良い大学に行って良い会社に入って、良い服を着て良いものを食べて、流行に後れないようにして...。
今はSNSという自分のイメージを他者にアピールするのに最適な場所があるので、そこでも必死に自分を良く見せようとします。
 
でもこれも同じように、きりがないんです。
もっと良く見せたい、もっと評価されたいと渇望する。
そんな自分のイメージを傷つけられたくない、崩れるのが恐いと嫌悪する。
いつでも他者の目を気にして生きなきゃいけないなんて、ストレスフルですよね。まるで自分の人生を生きていないみたいです。
 
自分のイメージに執着して、良いものを渇望すればするほど、それを得られない苦しみ、失う恐れに支配されていく。
そして、自分のイメージに対する他者の評価に執着すればするほど、それが損なわれる恐れ、他者の目という恐れに駆り立てられていく。
それに僕たちは自分のイメージに執着することで、ありのままの自分を受け入れられなくなってしまいます。
自分のイメージに従って、今の自分のここが良い・悪いと決めつけ、こんな自分はダメだ、もっと頑張らなきゃと自分で自分を駆り立てる。本当の自分を受け入れなければ、いつまでも満たされることなどないのに。
 
要するに、自由に生きられないんです。ありのままの自分で、自分が本当に生きたいように生きることができないんです。
これがほしい、これがなきゃダメ、自分はこうじゃなきゃいけない、こうじゃなきゃ自分じゃない。
何かに執着すればするほど、自分で自分を縛ってしまいます。
そして、思い通りにならない現実に振り回されてしまいます。ほしいものが得られず、嫌なことから逃げられず、悩み、苦しみます。ときには現実を受け入れられないこともあります。
そうではなく、ありのままの自分を受け入れて、執着によってではなく、自分の本当の意志に従って生きれば、僕たちは自由になれる。
自分のイメージにとって良いか悪いかの人生ではなく、自分が本当に生きたい人生を生きることができます。
 
そのためには、自分が無意識のうちにしている執着、それによる価値判断や取捨選択に自覚的にならなければいけません。
自分が気づかない間に何を考え、感じ、どんな行動をとっているのか、自分が本当は何をしているのかを知らなければなりません。そうして初めて、僕たちは根本から変わることができます。
 

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そのための具体的な方法が、ヴィパッサナー瞑想です。
瞑想をしていると、自分が無意識に繰り返してきた反応、思考や行動のパターンが見えてきます。
そして、自分への執着がいかに苦しみを生むか、文字通り体験を通じて感じられます。
自分の好きなものを求めて、嫌いなものを避けようとすればするほど辛くなるんです。笑
 
瞑想中は何時間も姿勢を崩せないので、体中に痛みを感じます。
しかも呼吸と感覚を観察し続けなければいけないので、何も考えることができません。
でもそれを嫌って、「痛い!」って思えば思うほど痛みが増すんですよ。笑
早く終われ!と願えば願うほど時間が果てしなく感じられるし、感覚を感じない部分に何か感じろ!って求めれば求めるほど、何も感じられないんです。
自分が今までそうやって無意識のうちに好き嫌いの反応を繰り返してきたことに、気がつきます。好きなものばかりを求め、嫌なことは避け続けてきたのだと。
でも瞑想中はただひたすら、好みも嫌いもせず、自分に起きている現実を見つめ続けなくてはいけない。
現実は変えられないのだから、自分に執着して思い通りにしようとしても苦しいだけだと。
ただ、すべてのものは常に変化し続け、生まれては消えていくのだから、それを好みも嫌いもせず、ありのままに観察し続ける。
そして、自分を縛り、苦しめている執着を少しずつ手放し、自由になっていく。
すると、徐々に痛みを痛みとして感じなくなってきます。感覚を感じられなかった部分にも、かすかな感覚を感じるようになります。これ本当です。笑
 
そしてあるとき、常に生まれては消え、変化し続けている感覚を全身に感じる瞬間が訪れるんです。
これは、「真理を体験する」と言われています。(僕の言葉で表現すると、正座してる時のしびれを全身で感じる感じです。笑)
そして、良いことも悪いことも同じように過ぎ去っていくし、自分自身でさえも変化し続け、やがては消えていくということを本当の意味で知ります。
これは誰もが頭ではわかってることなんです。なんでも自分の思い通りになるなんてありえない。良いこともいつかは終わってしまうし、嫌なことだってちゃんと過ぎ去っていくんだって。そして、自分も自分のイメージも変わっていくし、自分自身、いつかは消えてなくなってしまうということを。
けれどもそれを体験を通じて理解したわけではないので、頭でわかっていてもつい、自分の好きなものばかりを求めて、嫌いなものは避けようとしてしまう。自分のイメージに執着してしまう。
それを本当に意味で理解するのが、ヴィパッサナー瞑想です。
(もちろん一度真理を体験すれば執着が完全になくなるわけではなく、瞑想を続けるうちに少しずつ手放せるようになっていきます。僕もまだまだ修行中です。)
 

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僕にとってそんな今回の体験は、本当の自分に還っていく旅でした。
 
ここからは、それをまとめたものをそのままシェアします。
(これはあくまで僕の体験で、コースを通じて何を感じ、学ぶかは人それぞれです。)
 
 
最初はめちゃくちゃつらかった。何時間も座って体中が痛くなるし、時間が過ぎるのは残酷なほど遅いし、ひたすら呼吸と感覚を観察しなきゃいけないから、何か考え事をすることもできないし。
どうやったら楽にできるかばかり考えてた。こんなのが10日間も続くなんてって絶望してた。
自分がそれを嫌うから痛いんだってわかってても、痛いもんは痛い。弱い自分に負けてたまるかとか、絶対に真理を体験するんだとか、自分は他のやつらとは違うんだとか、自分も強い意志を持てるようになるんだとか、いろんな考え方で何とか乗り切ろうとしたけど、つらかった。
自分の意思で参加してるのに、瞑想が終わらないことにイライラしたり、先生に対して嫌悪感を抱いたり。
自分の心がいかに醜くて、自己中心的で、自分にとって良いことばかり求めて嫌なことは避けてきたか、痛いほど分かった。
そして、そうやって自分に執着して、思い通りにならない苦しみを生み出してるのは、自分自身なんだっていうことも。
それと、心がいかに不安定か。ちょっと瞑想してるだけで、心はすぐにどこかへ行ってしまう。過去のことを考えたり、未来のことを考えたり。今目の前にある現実を見ようとしない。
 
必死に渇望と嫌悪と闘った。痛みを嫌悪して耐えきれなかったり、感覚のないところに感覚を渇望してしまうことばかりで、いかに頭でわかっていても実践するのが難しいかを知った。だけど少しずつ痛みに嫌悪を抱かなくなってきて、自分自身で現実は、世界はいくらでも変わるんだってことを体験的に学んだ。
そんな中、どんどん見えてくる醜い自分。自分に執着して、好きなものばかりを求めて嫌なことは避け続けてきた自分が見えてきて、いかに自分にとって都合よく世界を見て、自分中心の世界をつくりあげてきたか、痛いほど知った。
もうそんな自分、強いエゴとはおさらばしたと思ってたけど、それはいつだって自分の中にいた。そんな自分に勝てる時もあれば負ける時もあって、情けなくて泣いてしまったこともあった。
 
自分への執着は、なかなか手放せなかった。期間中に真理を体験したい、今回でより優れた人間になりたいという渇望、成功する自分や結果への執着、そうならない状態への恐れや焦り、嫌悪に縛られてた。思い通りに瞑想の結果が得られない現実を、受け入れられていなかった。何度か決心して自然のままを観察しようとするけど、瞑想を始めるとそれは揺らいで思い通りにならなくて、心はいろんな感情で不安定になっていった。
 
7日目、そんな感情が爆発して泣いてしまった。泣いてもどうにもならないってわかっていたけど、次に進むための力が必要だった。心の支えが必要だった。
でもそのときはじめて、本当の意味で、自分が自分のイメージにものすごく執着してて、それが苦しみを生み出してることに気づいた。
常に成長し続けている自分、高みを目指して挑戦し続けている自分、輝いている自分、成功している自分、他者や社会のために活躍している自分、愛されている自分。自分は常に、自分にとってのそんな理想像に近づこうとしてきた。自分のやりたいこと、学びたいことはすべて、そのイメージを確立させていくためのものだった。自分のイメージにとって良いものばかりを求め、悪いものは避けてきた。
でも実際は、そんな自分のイメージに執着することで勝手に自分にプレッシャーをかけて、苦しんでた。このコースで真理を体験できなかったらどうしよう、何も得られなかったらどうしよう、成長できなかったらどうしようって。それが焦りや恐れを生んでた。
でも、本当は誰も、自分にそんな風になれなんて頼んでもいなかった。誰一人お願いしてないのに、自分が勝手にイメージを作り出して、それに執着してきたんだって。そしてそんなイメージを、他人にも植え付けようとしてきたんだって。
それは、エゴ以外のなにものでもなかった。
 
在りたい自分のイメージに執着しすぎて、現実をありのままに受け入れられてなかった。
ありのままの自分を受け入れず、愛さず、イメージばかりを愛して、そこに近づき続ける自分だけを肯定してきた。それ以外の自分は否定してきた。見て見ぬふりをしてきた。
理想の自分への執着が、実は自分が自然な、ありのままの姿で生きることの妨げになっていた。そんな真実を知った。
今まで、自分で自分自身を縛り続けてきた。他の誰でもない自分自身が、自分がありのままに、自由に生きることを邪魔してきた。
 
それに気がついたときはじめて、もうそんな執着は手放そうって決めた。真実と、本当の自分と向き合って、自然なままに生きていこうって。自分のイメージの人生じゃなくて、本当の自分の人生を歩んでいこうって。そして、そんな自分を愛そうって。もちろんなりたい自分はあるし目指し続けるけれど、そうなれなくたっていいし、どんな姿になっても自分は自分だし、今の自分だって自分なんだって受け入れようと決意した。
 
そこからはひたすら、今その瞬間に起きている現実をそのまま、ただ受け入れることにした。感覚を感じないなら感じない、感じるなら感じる。何も求めず、何も嫌わない。何にも執着しない。今回真理を体験しなくてもいいんだ、のんびりでいいんだって思うと、少し楽になった。
でもそれはまだ、自分の本当の声じゃなかった。そうやって逃げてただけだった。
自分が体験できなかった時のセーフティネットを張って、全力で取り組まなくてもいいように言い訳をつくってただけ。
 
本当の声は、言ってた。確かに今回うまくいかなくたって仕方ないけど、最後まで弱い自分と闘い続けたい、自分の可能性を信じたい、全力で取り組みたいって。
それは執着から生まれる声ではなくて、自分の本当の意志、心の声だった。
 
8日目の夜、すべてを手放した。自分のイメージに対する執着も、恐れも、焦りも、ごまかしも、甘えも、渇望も嫌悪もすべて。もう自分の意志に従って全力で闘うだけ。結果は自然に任せる。
そしたら少しずつ、真理に近づいていった。そして9日目、真理を体験した。
執着を手放して自由になった喜びが、本当の自分になった喜びが、全身に満ち溢れた。
それは今までずっと自分に問いかけ続けてきたけど、執着のせいで対話できなかった心の声だった。
それは、自由に、ありのままの自分で生きたいという声だった。
そのとき、これからはこの声と共に生きていくんだって決めた。自分のイメージに執着してしまうことも、ありのままの自分でいられないときもあるけれど、少しずつ本当の自分に還っていくんだって。自然な自分で、自由に、自分の意志で生きていくんだって。
 
その日、すべてがつながった。自分の使命を知った。
僕たちが心の本当の声に従って、本当の自分として生きられるようにすること。自然のままに、自由に、自分らしく生きられるようにすること。そして、誰もがそんな風に生きられる世界を創ること。それが、僕のいのちの使い方なんだ。
 
小さい時から、自分らしく生きるって何だろうってずっと考えてきた。それはきっと、自分が自分のイメージやそれに対する他人の評価ばかりを気にして、それに執着して、上っ面の、表面的な自分として生きてきたから。
高1の時、自分らしさをテーマに作詞したことがあった。自分がいつも聴いているテーマソングも、自分らしさについての曲だった。一緒にプロジェクトをやってきた仲間が送ってくれた言葉も、「自分らしくあれ」だった。
 
 
僕はいつだって、本当は自分らしく生きたくて、でも生きられなくて、自分のイメージに近づき続けることでそれをごまかしてた。いつしかそんなことも忘れて、ありのままの自分じゃない、イメージの自分の人生を生きてた。心の声は聴こえなくなっていった。
 
だけど心は、僕が本当は何を望んでいるか知っていて、僕は気づかないうちに人の成長のプロセスを探究してた。
教育に関心を持って教育学部に入って、日本人がもっと世界に出て成長するきっかけを創りたくて国際交流の団体を立ち上げて、途上国の人たちがもっと自分の可能性を広げられるプロジェクトに参加して。
そうやって人の成長を促しながら、実は自分自身が成長して、より良く生きる道を探し続けてたことに気づいた。この時代に、この世界で自分はどう生きていけばいいのか、どんな生き方が幸せなのかって。
心は、すべて知っていた。そして、知らない間に僕を導いてくれてた。
たどり着いた答えは、自分が本当はいつも求め続けてた生き方だった。それは、ありのままに、自分らしく生きるということ。
一生懸命自分の外に答えを探し続けてきたけど、それはいつだって自分の中に、ここにあった。
そして僕はやっと、その道を歩み始めたんだ。
 
僕たちは二回生まれると思う。一回目は、この世にかけがえのない命として誕生したとき。二回目は、本当の自分として生きる道を歩みだしたとき。
 
僕たちの心は、いつも自分に問いかけ続けてる。本当はこう在りたい、こう生きたいって。
でも、自分のイメージやそれに対する人の評価、社会のルールや常識といった環境に縛られて、なかなかありのままの自分でいられない。自分の生きたいように生きられない。
今の時代、それはますます難しくなってる。いつも比較されて、競争させられて、評価される社会。SNSに監視されて、常に他者の目を気にしていなきゃいけない社会。
必死で気に入られようとしたり、嫌われないように嘘をついたり、弱みを見せられなかったり、面倒な目を避けるために本当の気持ちをごまかしたり、自分にうそをついたり、自分を大きく見せようとしたり。
どんどん自分のイメージばかりが膨らんでいって、ありのままの自分でいられる時間がない。場所がない。
そんな自分にどこかで違和感を覚えていても、そういうもんだって、自分の生きたいように生きられる人なんて一握りだって言い聞かせて。みんなそうなんだ、仕方ないって。
そうやって社会に適合した自分のイメージを作っていって、それを保つために必要なものを求めて、必要じゃないものは避ける。
少しずつ自分のイメージに執着していって、それを手放すことができなくなる。たとえ、心のどこかで変わりたいと願っていても。
心の声はだんだん聴こえなくなっていって、いつしか本当の自分ではなく、自分のイメージを生きるようになる。
自分が本当に生きたいように生きることを忘れてしまう。
 
僕たちはそうやって夢を追うのをためらったり、あきらめてしまうんだ。
嘘偽りのない、ありのままの自分で生きたいという夢を。
 
それは自然な状態ではないからモヤモヤが溜まっていって、ときに悩んだり、爆発する。
これが本当に自分の生きたい人生だろうか、自分って何だろうって。
 
それでも幸せな人たちはたくさんいるし、それは素晴らしいこと。
だけど、心のどこかで、本当の自分として生きたいって声が聴こえてる人たちもいる。
それを探しても見つからなかったり、追求できなかったり、実現できずにもがいている人たちがいる。
変わりたいと願う人たちがいる。
僕たちをそうさせてしまっている社会を、僕は変えたい。
 
人が本当の自分に還っていくプロセスを、一緒に歩むこと。そんな仲間と、誰もが自由に生きられる未来を一緒に創っていくこと。そんな使命を、自分自身が本当の自分に出会う旅の中で見つけた。
 
喜びのエネルギーを体中に感じた。感覚を通じて、本当の意味で。心が躍るってこういうことなんだって。
 
 
最後の瞑想が終わったとき、涙が止まらなかった。
それは悲しみや悔しさじゃなくて、喜びの涙だった。感謝の涙だった。
本当の自分にもう一度出会えたこと、これからはそんな自分と共に生きていくことのできる喜び。
そして、ここまで導いてくれたすべての人たち、それを支えた地球上のすべてのいのち、それを創り出した宇宙のエネルギーへの感謝。
ありがとう。本当にありがとう。生まれてきてよかった。僕は最高に幸せだよ。
 
そのときはじめて、本当の意味で自分を愛すること、否定も肯定もせず、ただありのままに受け入れることができた。
それまでも、醜い自分とか過去の自分を受け入れているつもりでいたけど、どこかで否定していて、心から受け入れられてはいなかった。そんな自分はもういないって言い聞かせてた。
本当はいつだってここにいたのに。自分が愛していたのは、自分のイメージだけだった。
だけど、やっと、すべてを受け入れて、自分のいのちに心からありがとうって言えた。愛してるって言えた。
 
そして、どんなに苦しくても、希望はあるということを知った。どんなに暗くて長いトンネルにも、必ず光り輝くゴールがある。
神様はきっと、喜びのために苦しみをつくったんだ。闇があるから光は輝くんだ。僕たちが今この瞬間を大切に生きるために、いのちに終わりをつくったんだ。だからすべてのものは必要で、無駄なものなんて世界に一つもない。そして、いつだって最後は希望なんだ。
 
まだまだ執着は手放しきれてないし、旅は始まったばかりだけれど、僕は確かに、本当の自分として生きる一歩を踏み出した。
僕は自由だ。
 
 
だんだん感極まって自分の世界に入っていきますが、そこは許してください。笑
 
 

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僕はこれまでの人生を通じて、こんな成長のプロセスを歩んできました。
 
1、他者との比較、他者からの評価に対する執着からの解放。
 
他者や社会がどう思うかにかからわず、自分が本当はどう生きたいか、どんな自分でありたいかを知る。
 
2、自分のイメージへの執着からの解放。自分はこう在らねばならない、これをしなければならない、でなければ自分じゃないというプレッシャー、それが引き起こすエゴ、ありのままの自分を受け入れられない弱さからの解放。
 
僕たちは自分のイメージ通りに、自分の思い通りに生きることに執着してしまうと、逆に自由に生きられなくなってしまいます。
自分にとって良いことだけが起こり、嫌なことが一切起きないなんてことはありえないからです。
思い通りにならない現実に一喜一憂して、振り回されて、縛られてしまいます。
 
本当の自分として生きる。
そこには、こんな人間で在りたいな、こんな風に生きたいなという思いはあるし、それを追い続けます。
でも、たとえそうじゃなくても自分だし、それを他人がどう評価しようと勝手だし、自分にはどうしようもない。
「~じゃなきゃいけない」「~するべきだ」こんな自分を縛るリミッターを、徐々に外していくんです。
そして、何にも執着せず、自分のイメージにとって良い悪いの二元論を乗り越え、自分が本当にワクワクすること、心からやりたいことに全力で取り組んでいく。
その結果も、最後は自然に任せる。なるようになるって。
これが自由に、本当に自分らしく生きるということなのかなって。
 
それで、こうやって執着から解放されるにつれて、愛が芽生えてきます。
イメージではないありのままの自分を受け入れることで、他者も同じように受け入れられるようになる。
自分のイメージへの執着、エゴをなくしていくことで、他者を思いやれるようになっていくんです。
 
執着の生み出す最大の不幸は、人を愛せない、人から愛されないということです。
それは、自分の存在価値、生きる意味を感じられないことにもつながります。
自分のイメージ、そしてそれに対する他者の評価にとって良いものばかりを求めていたら、どんどん自己中心的になっていきます。多くの場合、自分にとって良いものは誰かにとっても良いものだし、自分にとって悪いものは誰かにとっても嫌なものなので、奪い合い、押し付け合いが始まります。
自分のイメージばかりを大事にしている人が、純粋に愛されることはなかなかありません。
そして、純粋に愛することもできません。
自分にとって何かしらの利益を期待した愛ならあるかもしれないけれど、それは結局エゴを増大させてしまいます。
 
僕たちは誰かを愛し、その人のために何かをすることで、自分の存在価値を信じることができます。
そして人を愛して、人のために生きれば生きるほど、愛されます。生きる意味を感じられます。
これも同じようにきりがないけれど、不幸にはなりません。むしろ、愛すれば愛するほど自分も他者も幸せになります。
自分を縛っている執着を手放せば手放すほど、この真実に気づいていきます。
本当の自分は、自由で、愛に満ちているんだって。
 
そう。自由と愛。
これこそが、僕の探し続けてきた、本当の自分としての生き方だったんです。
僕はもっともっと自由に、もっともっと人を愛せるように生きていきたい。そうやっていのちを燃やしていきたい。
 
 

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僕たちは何のために生まれてくるのか。
それは、幸せになるためです。
そのためには、愛と自由が必要だと思うんです。
だから僕たちに課せられた共通の使命は、本当の自分の声に従って自由に生きること、人を愛することじゃないかなって。
 
世界はうまくできていて、僕たちが幸せになろうとすればするほど、執着を手放して自由になること、人や自然、動物を愛することが必要になってきます。
それにつれて、社会や地球の調和が保たれて、みんなが幸せになる。
それはきっと、宇宙のすべてを創り出して、今もなお守り続けているエネルギーが、愛だからだと思うんです。何物にも縛られない、自由な、無限の愛。
だってなんの見返りも期待せずに、僕たちを、自然や動物、あらゆる物質を生み出して、自由に生きさせてくれてるんですから。
それは、純粋な愛以外の何物でもありません。
だけど僕たちは、その愛を独り占めし過ぎてしまった。
自分たちばかりを愛して、ほかの生き物、そして地球を苦しませてきた。
それだけじゃない。同じ人間同士も、奪い合って、憎みあって、傷つけあってきました。
愛の欠如した世界は、バランスを失っています。自然な、本当の状態じゃないからです。
一部の人たちが、ほかの人たちから奪うことで幸せになっています。エゴとエゴが、そこらじゅうでぶつかり合っています。
 
今こそ、僕たちは自然に、本当の自分に還らなくちゃいけない。
愛に満ち、自然な、本来の生き方をしなくちゃいけない。
じゃなきゃ、地球は崩壊してしまいます。それは、僕たち自身にとっても良くないこと。
今まで守り続けてきてもらった地球を、未来の人たちに、生き物たちに残せないなんて。
このまま不自然な生き方を続けて、もっと大きな苦しみを未来の人たちに、地球に押し付けるなんて。
この時代に生きる僕たちの使命は、愛することだと思います。
一人一人が自分の周りに愛を振りまくことができたら、世界のほとんどの問題は解決されてしまう。
僕たちが変われば世界は変わる。答えはいつだってシンプルなんです。
言うは易しで、これが難しいんですけどね。笑
 
だけど僕は、この時代に生まれたことを光栄に思います。
僕たちがどう生きるかで、地球の、これから生まれてくるすべてのいのちの未来が決まるんですから。
一人一人にその選択権が、誇らしい使命が与えられているんですから。
僕はこの地球を、僕を産んでくれた、こんなに幸せな人生を送らせてくれた地球を、未来のいのちのために残したい。
彼らが同じように、幸せになれるように。
だから僕は、愛するという生き方を選びます。
それが、一番幸せな生き方だから。
 
起こしたい変化に、自分自身がなる。
そしてその物語を、こうやって伝えていくんだ。
ちっぽけな自分だからこそ、未熟な自分だからこそ、誰かの背中をそっと押すことができるって信じてるから。
旅は続きます。
 
 

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これからしばらくは日本で、自分の使命を具体的にどうやって果たしていくか考えたり、そのために必要なことを学んだりしていきます。
世界に出ても、結局はここに戻ってくるんですよね。
大学にもそろそろ戻ろうかな。笑
 
今はなんとなーく、自分の立っている場所からして、一緒に未来を築いていく若者が本当の自分に出会える旅のプログラムみたいなものを創れたらいいなと思ってます。それを通じて今の時代、今の世界で発揮できるリーダーシップを身につけられるような。
それで、そのコミュニティを創れたら素敵だなって。
 
アンテナが反応した方は、ぜひご連絡ください!
まだまだ構想段階ですが、コクリしましょう。
 
 
最後に、僕の大好きな本を紹介させてください。
アルケミスト~夢を旅した少年~
 
主人公の少年がすべてを捨てて宝物を見つけにいく中で、人生とは何か、生きるとは何かを学んでいく旅の話です。
もう4回も読んでるんですが、読むたびに考えさせられて、学ぶことがあります。
なんでそんなにこの本に惹かれるのかよくわからなかったんですが、自分の使命に気づいたとき、それがわかりました。
それは、少年が自分の夢、本当の自分として生きたいという、実は誰もが持っている夢を追い求める旅路だったんです。
少年が見つけた宝物は、何物にも縛られず、自分の意志で、愛に満ちて生きるという自由でした。(あくまで僕の解釈です。)
僕は無意識の間に、自分の歩んできた旅路を歩んでいる少年の物語に惹かれてたんです。
 
この本、めちゃくちゃおすすめです。
何も考えずに読んだらただの冒険ストーリーなんですが、いたるところにメッセージが溢れていて、わかる人が読むと心が震えます。
皆さんもぜひ一度読んでみてください! それで、一緒に語りましょう。何か感じたことがあったら教えてほしいし、よくわからなかったらそれはそれでいいので!笑 僕の感想だったら、いくらでもシェアしますから。笑
 
あ、あと、僕が今回語らせていただいたことの多くは、実は仏教の考え方に由来しています。
時代や社会によっていろんな考え方が流行するけれど、25世紀以上も受け継がれてきた仏教の教えは、自分の中の揺るぎない土台、軸としてめちゃくちゃためになります。仏教にもたくさんの宗派があるので一概には言えませんが、神や特別な人間に自分の運命を委ねるのではなく自分自身の力で道を切り開いていく仏教の教えは、より良い生き方とは何かが問われるようになったこの時代において、世界中の人々に学ばれ始めています。
日本では仏教はすでに文化として生活のかなり深いところまで浸透していて、社会のルールや道徳、教育の土台にもなっています。あまりに浸透しすぎて気がつかないけれど、僕たちは仏教の教えをすでに学んでいるし、知っているんです。
多くの日本人が自分は無宗教だと言うけれど、実は仏教徒であると言っても過言ではないくらいです! 
だからこそ改めて仏教の教えを学んでみると、それがとても役に立つことに気がつくと思います。日本では宗教=危ないというイメージがあるし僕もそういう偏見を持っていたけれど、世界を旅する中で、人がどのように生きるかの軸になる宗教の重要性を知りました。
日本はそれがないからこそ、生きることに悩んだり、苦しむ人が多いのかなとも思います。仏教は宗教というより世界観や考え方なので信者を増やそうとはしないし、学びたい人はどうぞご自由に学んでくださいというスタンスです。
なので皆さんもこの機会にぜひ、特に今回の内容に共感した方は、仏教の世界観に触れてみてください!
 
 
 
それでは、鬼のように長い文章を最後まで読んでくださった方、本当にありがとうございます。笑
これからも、僕の旅の話に耳を傾けてくださったら、嬉しいです。
 

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お礼に、後光を浴びた僕の満面の笑みをプレゼント。笑